先日、隠岐諸島を訪れいろいろ感じることがあったので書いてみようと思う。
今年、気づいたことがある。
人間の接点とは、以下4つの面のいずれかにプロットされる
ということ。4に近づくほど私的になる。
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1.Public&Social
公共、社会、地域。
集団や大勢で創られる道徳、作法、価値観と自分との関係
2.Business
1.の中で、価値の交換が起こり、カネが前面で絡む範囲とその関係
3.Private
知人、友人、肉親、地縁。
2より私的だが、実は2よりカネが絡む関係
4.Privacy
墓まで持っていく、自分自身のみの秘密
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処世として
「この人はここ」
とプロットしてみると、ストレスの軽減にもなる。それ以上の期待をしなくなるからだ。
当座の自分のストレスはたいてい、
遠くの悪人より、隣の常識人(肉親含む)
だったりするわけで。
この他者への
・プロット(関係性)
・その共有範囲(共有が広がるほど圧力を形成する)
が、
「時代 = 世間の圧力」
を創る。昨今の
・消費化(どんどん買いましょう、使いましょう)
・共有化(SNSなどでの相対化、同化推進、にせプライベート)
・都市化(都市が吸収、地方の空き)
・偏在化(富の連鎖:いわゆるマタイ効果)
・マネー化(なんでも値札つき)
・匿名化(ネット上でのやり取り)
・キラキラ化(ごく一部の美談のメディアによる過剰な持ち上げと忘却)
・デザイン化(結局は欧米コンプレックス。とはいえ純和風も・・)
などは、上記の2と3が前面に出たもので、それは
「技術を背景にした、時代と感情の流れ」
であり、誰も止められない。
「昔は良かった。」
など、
その技術が世に浸透していないという前提でのたわごと
でしかない。なぜなら、
文明の進歩に逆進性は、絶対にない。
からだ。
※我々の性癖が増えるだけで、減ることはないのと同じ。
人間の欲は常に、「より便利に、より豊かに。」を求めてきた。
が、あまねく情報化は、民衆に
・知れなかったこと
・知る必要のなかったこと
を与え、同時に偏った情報収集術をもたらした。
本当に大事なのは、
・情報の中身(事実)
・それを判断する知性、品性
なのに。
処理能力のない民衆に、麻薬のような甘い情報だけを与えて同一化させるのはもはや情報軍国主義だが、歴史上それは覆らない。
そういえばこの本
は、昨今の情勢に疑問を投げかけていてリアリティもあった。が、
「それって、加齢後の達観だよね?」
ともいえる。
※筆者もバブル真っ盛りは偏った時期があったと述懐している。
「願いがかなわないと悟った時、人は残りの人生をどう生きればいいのだろう?」
とは、リスボンへの夜行列車のセリフ。
消費は、若者とカネ持ちの特権。
それは当たり前のこと。
若さもカネも、消耗品。使ったら無くなるから。
だからこそ、
「ココロ と カネ」
のどちらが大事かという二元論ではないことは筆者も述べている。
「どちらも大事」
としか言いようがない。
・値札のついているものはなんでもカネで買える。
・ついていないもの(若さや想いなど)は買えない。
というだけなのだ。筆者の言う、
「沈黙の交易」
とは巧い表現だな、と思う。
片手で沈黙を求め、片手でにぎわいを求める。
人間とは勝手なものなのだ。
その人間の消費自体は止めれない。
が、消費の「方法が変わったこと、ついていけないこと」を嘆く。
カネ論者(変化だよね!)
と
ココロ論者(普遍だよね!)
は永遠に平行線である。
議論に価値はあるかもしれないが、両者が結論を共にすることはない。
つづく。